「少子高齢化」と、多くの行政や政治家が叫び、メディアも盛んに放映し、市民である僕たちもそれが危機だと感じている。
僕もその一人だが、自分は協調性というより自分の意見を押し通してしまうたちなので、周りが危機だと思っていることも、自分が本当に経験し、実践しない限り「危機」だと感じないような頭の構造になっている。とりあえず、我が強く、周りに流されにくい、めんどうな人間。
ということで、「未来年表 人口減少危機論のウソ」を数年前に読み、自分の特性もあって、自分なりに「少子高齢化ってなにか別の本質的な問題を見せないためのおとりではないか?」と感じてきた。
1. 分かりやすい言葉とおとり
僕が大好きなゲームで、スプラトゥーンがある。その中では、味方が自分の位置にジャンプするときに、「ここに誰かが来ますよ」というマーカーが表れ、それを敵も見ることができる。
そのため、敵は「自分を待ち構えているとは知らない、誰かが飛んでくる」と思い、そのマーカーを打ち続けたり、攻撃を備える。
そこで、そのマーカーをおとりとして、それに釘付けになっている敵を、死角からキルすることができる。
僕はこれが、「少子高齢化という言葉に通じることがあるのではないか」と考えた。
ルボンという心理学者が書いた「群衆心理」という本があるが、この中では、「分かりやすいスローガンが群衆に広がっていく」と述べられている。そのスローガンには、元あった高尚な意味がすべて削ぎ取られ、誰にでも食べやすいようにかんたんな言葉で作られている、という。
これはまるで、「少子高齢化」という、老若男女問わず、分かりやすいこの言葉を指しているのではないか。
2. 本質的な問題
このように、少子高齢化という言葉は、いろいろな問題の帰結をすべてそれにするために役立つ。
例えば、産業の衰退や、行政の運用、他にもあるだろうが、「もしかしたら、少子高齢化ではなく、その仕組みの本質的な問題によって起こる問題も、「少子高齢化」のせいとされているならば、本当に恐ろしいことではないか」と思った。
それは、先に述べたスプラトゥーンの味方を、チームの利益を最大にするために一時的なおとりにするのとは違った、「言い訳」に使える可能性がある。
それは、自分と同じチームの味方をおとりとして、自分だけが助かるように遠くに行ってしまうという形での、「少子高齢化」という言葉が使われている事例もあるのではないか。
今後、それをうたう人たちの行動をみたとき、それは本当に少子高齢化のせいだけだろうか?という視点を持つことが、日本の各地域のエンパワーメントの起点となる本質的な問題の発見に繋がるのではないか、という仮説。